第一話
大いなる青空。雲一つ無い。
飛び舞う、青い鳥。バサリバサリと羽ばたく。
幸せの証は、地獄の最果に一羽。
鳥は森に消える。
第一話
「オォオオオオォオ!!」
狼の、遠吠え。
けして届かない母なる月に吼えていた。
戦士の、咆哮。
血塗られた槍を大地に突き刺す。
友への、涙。
あの笑顔は、あの声は、もう無い。
彼等は蝋人形の様に白く固まっていた。
敵への、追悼。
痛む心を握り締める。嗚咽は叫びに昇華して。
全てを。己の今までの経験も、勲章も。
役に立ちさえしなかった全てを一度に、白紙へぶちまけた色の感情。
気持ち悪くなる程、心を浮き彫りにさせる色は、鈍く濁っている。
その感情から生まれた叫びは、夜の荒野を覆う。
己から望んで槍を手にした者は。
親友と杯を交わし、勝利を誓うと叫んだ者は。
何処までも狼に似た生物。
二足で歩き衣服を纏い、軍を成そうとも。
どの人間よりも人間らしくあろうとも。
決して人間とは呼ばれない。
何時までも、何時までも、人の様な獣とだけ。
軍兵は、人狼。ウェアウォルフ。
狼の犬耳を持ち、長き牙を持ち、灰色の体毛を持ち、鋼の爪を持ち、金色の眼を持つ。
更には人と狼の言語を同じ様に解し使用し、人の如き思考と思想と意志を持つ。
人狼。そう称す他に無い者。
纏うのは、体毛よりも濃色の灰色でカラーリングされた衣。軍服。
毛で覆われてこそいるが、首は丸太の如く太い。
その首から両手首、臍部までをキチリとボタンを締めて覆う。
胸ポケットにはピン止めされた勲章は、二つ。
牙狼将の証。
牙剥く狼たる将。三十人以上の敵兵を屠った兵に送られる。
彼は、三度目に参加した戦で授与された。
金狼槍の証。
猛る金色の狼が持つ矛は、神を貫く槍。
十万の兵を授かるに値する者に王から送られる大隊長の勲章。
五度目の戦を制した時に承っていた。
更に肩の二本線を合わせて読めば、自ずと階級は割れる。
人狼は、将軍位。
狼王将と呼ばれる将軍位は、世界広しとは言え、ある一つの軍にしか存在しない。
帝国。その、唯一の軍は世界最大の軍。
人を統治するに値する人狼のみに与えられる位は、長らく空位であった。
天才。
百万の兵を抱擁し、五万の政治家を生み、大国を守護する団体に於いて。
誰にもそう呼ばれる者は、当代は一人きり。
人間で無い事に在らぬ先入観を持つ者も居ない訳では無い。
それでも、その差を埋めるに値する者であった。
太古に、世界の禁忌を犯した神と、世界の規律を破った人の、子孫。
神と、神に似せられた者の交わりは、卑しき獣に似た人を生んだ。
無類の力を誇り、卑怯なまでの知恵を持つ。
人狼は、中でも最強と呼ばれた一族。
彼は、一族にて最強と呼ばれし兵。
何処までも荒く高まる感情を慰めるのは、突如降り出した雨。
闇夜に映えない雨は、肌にぶつかり地に落ち屍に触れ音を鳴らす。
見えはしないが、確かに降っていた。
声を閉ざし、熱を冷やし、空気を重くする。
霧雨。サーと、決して濁らない音。
涙も想いも流して、その中で宝石の様に輝くのは哀しみ。
混沌とした色の中で、まるで透明だけが浮き彫りに。
如月。それが、軍に属する人狼の名。
名字を西牙。西牙 如月。純血を保つ一族。
如月の、月は深い意味を持つ字。
月女神と人の子である彼等の、母たる星。
神聖にして高尚とされ、王たる者にしか付ける事が許されていない。
月王狼。
そして更に如月は冠名を持つ。最も偉大なる神祖たる人狼の名。
如月は神祖に勝るとも劣らぬ。そう認めたのは、皆。
それこそ、百種も有る獣人種に於いて至高の賢者と呼ばれし存在として。
仲間との群生を知り。
無限の孤独を知り。
爪牙を持ちながら、理性を持つ。
神と人の子。
人に無き物と獣に無き物を同時に授けられた者を獣人と呼ぶならば。人狼。
否、彼だけは、あえてこう呼ぶべきだと言える。
神子。神に無き物と人に無き物を持つ者として。
人との間で己の子を授かった五の神の中で、最も偉大なる者を父の血を汲む者として。
神と交わった百の人の中で最も愚かなる者を母の血を汲む者として。
如月の涙は留まらない。例え、如何に、彼が英雄であろうとも。
英雄であるからこそ。捨てる事に不慣れであった。
失い事を嫌い、誰よりも何よりも"手に入れる事"を欲した。
そして、足元には百万の屍。
二色の軍服は、敵と味方。それだけに別けられる。
濃灰の軍服は、言わずとも如月と同型。
帝国陸軍が誇る神槍部隊。その一個大隊の兵が眠っていた。
対したのは、汚れた純白。
肩当ても金具もボタンまでも、白く。何処の衣よりも白さを求めていた。
闇に紛れず、森に隠れず、民に化けず。
そう掲げたのは、王国。帝国とは国境を交える隣国の、軍服。
中でも、刀剣を背負う部隊は少ない。禁軍。
皇居直属の軍は、三日に渡り帝国と刀身を噛み合わせた。
白兵戦。
大砲も、銃も、毒も、術も存在しない戦争。
只管に互いは自身を信じて争った。
『王帝戦役』
後に、こう呼ばれる戦が、先の先まで続いていた。
現在は、例えるならば生き地獄。その中で。
馬の蹄音と共に戦の火蓋は切って落とされ、狼の咆哮に終焉を迎えた。
王国禁軍全軍、九十万。
禁軍大将芦屋の、鶴の一声に一斉攻撃の手が上がった。
「喧嘩は力だが、戦争は数だ。」
喧嘩師上がりの軍師はそう唱え、一国を築き世界的強者に成り上った。
何処までも根拠の無い事実であり、何よりも確かな事実であった。
戦に参加したのは、総勢百万。
内、九十万が敵であるならば、如月の指揮下には十万。
飛行機の無い世界に、ランチェスターも又存在しない。
けれども、真理に変化は無い。
圧倒的、酷く何処までも圧倒的戦力差は確かに存在した。
それを埋めたのは、やはり如月。
この三日で彼が屠った敵の総数は、四桁にも及ぶ。
拳を振れば人を殺し、人を殺す為に牙を剥き、磨いだ爪は心臓を貫いた。
選び指示した作戦は一言。
「全力を以って」。
今からすれば、なんと傲慢な台詞だろう。
自信過剰。負けぬと、必ず勝つ事と。それを前提にしていた。
悔し涙さえも雨に溶けた。
帝国陸軍は、全身全霊を以って指示に従った。
一斉攻撃に対抗したのも、一斉攻撃。
法則は覆らず、真理も変わらず、十万の兵は九倍の兵と共に死んだ。
獣人。全てを壊し、再構築し、成立させた存在。
帝国軍の内、人で無い者は一握り。
その一握りの殆どを肩の線に問わず掻き集めた。それが、一千程。
全体に於ける一割の味方。更に、その一分。
一厘。正しく一握りとしか呼びようの無い者達が。
鍵と成った。要因ではあったが、しかし彼等だけの力では駄目だった。
不死身。
その名称を以って、屈強な者を連想するかも知れない。
岩よりも鉄よりも堅い肉体を持つ格闘家達を。
違う。死なずの身。誇張無く、彼等はその身であった。
剣を心臓に差され様が、頭を槍で貫かれようが、内蔵を大地に引きずり出されようが。
瞬く間に傷癒し毒制し何事も無い様に動いた。
無敵。しかし、絶対では無く。
一つだけ条件を以って、彼等はその特性を発揮した。
虎の様な人。人虎も。
鬼に似た人。喰人鬼も。
狗の姿の人。天狗人も。
等しく、同じ条件下で。
それは、月夜。月が、出ている夜。満月である必要も、新月で無い必要も無い。
只、月が雨か闇に消えていなければ。それだけで。
開戦が夕闇頃だったのも好機だった。
不死身人を先頭に、まるで塵芥を払い除けるが如く陣を裂いた。
月が沈み、陽が出ずる。
偉大なる母を闇に封じ込める邪悪なる神が天空を支配する、昼。
獣人達は超人的な筋力と獣の特性以外の他に特記すべき事も無くなる。
つまり、不死性は失われて人を超えた人に。
ならば、攻めの一手は自滅の道を辿る事に成る。
防ぎの一手を選ぶ訳にも行かず、森という戦場を選んだ策が勝った。
少数対少数に持ち込む事での、戦力差の低下。
二度目の夜が始まった頃。殆どの者が深い森の中でそれを迎えた。
開戦から丁度一日が廻った時に四半数を失っていたのは、王国禁軍。
そして、満月。
鳥はより高く舞い、獣はより強く成る美しき夜。
十の人を一度に持ち上げる筋力は二十の人を一度に握りつぶす程に。
剣の切っ先は皮膚さえ裂かず、砕けていった。
剛。その一文字だけで全てを語る。
半数。
約三十五万の人をたかだか一千の獣人が殺した。
獅子は兎を狩るにも、という諺が有るが、人が枯れ葉を踏み砕いても気付かない様に。
手当たり次第。
食べ物に例えるのなら、ポテトチップス。何枚食べたかなど、覚えている由も無い。
王国にしてみれば、奴等は化物にして、生ける災害。
災害と戦う。戦わなければ成らないが、何と無意味な作戦だろうか。
目の当たりにした狂気に士気が下がったのも事実であり、敗因の一つであった。
風向きも、運も、策も、全てが帝国に味方した。
母は機嫌が良いのだろうか。
如月がそう思ったのも、無理は無い。
気紛れにして傍若無人。その印象しか無かったのが、和らいだ。
母の姿が消え、闇が晴れた後も、帝国は順調であった。
つまり、王国は攻めあぐねていた。昼の森を。
何処までも甘く見ていた。短期決戦とは言うものの、数日に及ぶ戦を。
最初の森と二日目の森は、全く違う顔を侵入者に見せた。
帝国にとって、堅固な護りは完璧なる護りに。
王国にとって、難攻の砦は不落の砦に。
森。たった1日間で、そのものに大きな変化が訪れる筈も無い。
ならば、何故。両軍は微笑み、怒りに狂ったのか。
二十余万。それが何の数を表すかと言えば、森で命を枯らした者達。
死して肉体が砂になる。
それは屍を許さない天使の特権であり、人間には無い特性。
つまり、二十余万の死とは同数の屍が存在する事を意味する。
内、殆どが王国兵。
厭が応にも、片付けるだけの時と余裕が無い空間では顔合わせする事に。
微かに感じた物音の主は味方の屍に辿りついた獣であった。
鳥が内臓を啄ばみ、顔は猪か鹿に踏み潰されてグシャグシャに。
それを歩く度、曲がる度、注意する度、見つけるのだ。
獣人を災害と思った時は、それでもという言葉が間に存在した。
無かった。
それでも。だが。しかし。文を否定する接続詞が一つとして。
唯一こじつけるとすれば、戦争という大罪に。
しかし、戦争の元に人を捨てる事は出来なかった。
兵は兵を止め民に堕ちた。
それも、無能の。身を護る事すら忘れていく程に。
極度の興奮、最悪の状況。
気を当てない方が面妖しい。当てない者がいるとすれば、獣人だけだろうか。
これだけ人を殺し、更に殺し、殺そうとしていた。
災害とは、数少ない諦めの言葉であった。
自虐にも憎悪にも似たそれは、森に踏み入った王国禁軍の全員に襲い掛かった。
もう三分の二も失われていた王国の戦力。
増強が見込めないのは、最初からの予定通り。
嫌な事ばかり予定に従う。と、総大将が口惜しく漏らしたのを聞いた者は無い。
部下の数は、十五万にまで削られ減っていた。負ける。
敵の数は、十五万にまで削り減っていた。負けぬ。
対して、敵の数は一割が削られた程度。勝てぬ。
対して、味方は僅かばかりの損害。勝てる。
同時刻に導き出された二つの戦況は、全く同じ。
違ったのは自信と余裕。
そして、迎えるのは夜。
両者の予想が大きく覆された。母の、悪戯に。
快天の夜世界で、一瞬にして鈍い闇が月と星を覆った。
満月より、僅かに小さな欠けを持つ月は、消えていた。
もう応援も疲れた。勝敗は決したんだろう。
やる気の無い野球ファンとでも称すべきか。
母をこれ程に愛した夜の翌日に、今まで無い程に憎むとは如月も思っていなかった。
最強無敵を誇った獣人。
一瞬にして不敗伝説は崩れ去った。
剣に貫かれた傷からは血が迸り、獣人の特性と言えばゆっくりと痛みを和らげるだけで。
断たれた首は元に戻らず。十本も一度に剣を浴びれば動きを止める。
それでも超人的筋力と獣の勘だけは衰えず。
森は木々を裂かれ崩されて荒野と化した。
勝利を飾ったとはけして言えない味方の全滅。
しかし大敗ともけして言わない敵の全滅。
そこに結びついた。
一人きり。生き抜いた、生き残った如月。
涙が涸れる筈も無く。
声が枯れる理由も無く。
百と一万の死者を出した悲劇は日明けと共に幕を閉じる。
日明けは更なる惨劇の幕を開けたのだから。
彼が、現れた。後光を纏って。
「はじめまして」
彼は屍の頭上に屹立している。
その屍は、敵の副将で有った者。
大将を、己が身を挺して護り、死んだ者。如月が手に掛けた者だが、名は知らなかった。
「誰だ」
鉄の様に固そうな靴が踏み潰す屍の顔を睨み、そして顔面に視線を移す。
怒り。違う。悲しみ。違う。
義憤。偽善で繕った大義の元。
「ダイコウシャと言います」
美しい白い面が歪んだ。
笑顔。けれども、楽でも嬉でも無い。企み。
高く直線な鼻梁、揃う歯並び、細い眉、長い睫。
美形。美人。造りが、そう呼ばれる類の存在。
相場は、心が冷たい者。
「足を退けろ」
お。と、まるで初めて其れに気付いたかの様に。
やはり金属製の靴はカンと高い音を立てて舞う。
屍で埋まる視界、その僅か外に僅かな大地の隙間が有った。
目下。足元。そう、呼ばれる場所。
ダイコウシャは辿る。明らかに不自然な軌跡を描いて。
両者が手を伸ばせば届いた程の距離が、息の当たる程に。
身長は同程度であり、視線の線に眼が有った。
「仲間に成りませんか」
一言。言霊には、殺気も闘気も、およそ不純な負の気流は無く。
まるで勇者が僧侶を仲間にする時の様に。
愛にも似た友情。
そして。有無を言わせぬ威圧。
対等を至高とする筈の情が、明らかに上からの発言であった。
何処が、どう。それを形容する事は出来ないが、だが事実。
如月。賢者と呼ばれし英雄は、唖然と立ち尽くす。
そして、意識と現実が交差した瞬間気付く。
動けない事に。生を懇願する為に逃げる。それさえも恐れて。
死を受け入れた肉体は、全てが竦んでいた。
足。腕。手。指。肩。腹。喉。舌。そして、脳までも。
痺れる感覚に似たそれが、全身を満たしていた。
如月は右足を退いてから身を翻し、逃げるつもりだった。
しかし、左手を差し出して握手を願ったのは、何か。
感情、意識、心理。その根源、その奥に有る何かが訴えた。
ダイコウシャ。代行者。誰かの代わりに誰かの望む事を行う者という意味。