第十話
銀色の手錠を後手に縛られていた。
黒い布は目を覆い後頭部できつく結ばれている。
白い髪は床まで達し、何年も櫛さえ通していない様な状況。
コヒューコヒューと苦しげに喉を鳴らし、紫色の唇が震える。
両足と両膝は座る椅子の脚に縄で身動き取れぬ様に巻かれていた。
胴体も背凭れに縛られていた。
アーミーブーツからは血が染み出し床を赤く染めていた。
ヴィンテージのジーンズ・パンツは、世界的ブランド。
裂かれ破かれ引き千切られていた。
そして、裂け目から垣間見えるのは痛々しい生傷。
本来は透ける様な青色だった筈が、紅に染められる程に。
右耳は、無い。千切られたのか斬られたのか。
治療されていない傷口は腐敗を始めていた。
良く見ると、両手も異様なものであった。
爪が、無い。一本たりとも。これは見て解る程に引き千切られていた。
傷口は不自然に塞がっている。無理に接着剤で止血させた跡が有った。
ガチガチと前歯が震えて軋む。奥歯は六対程、左右均等に抜かれている。
神経を露に歯肉が閉じる事も出来ない様な跡だったが、「彼」は痛みを必死に表現しないように、
何度も前歯を食い縛る。
両腕と胴体の細い筋肉は明らかに急激な運動不足と栄養不足によるものに見えた。
その、痛々しい「彼」を収容するのは、囚人や捕虜の牢獄では無い。
部屋。鍵の無い木製の扉が有り、少しだけ一般より巨大なテレビが有り、猫足のテーブルと対の椅子が有り、
世界的に有名なパークのカレンダーが有り、月光を差し入れる天窓と陽光を全体に行き届かせる壁窓が有り、自由に光を遮る為のカーテンが有り、壁はコンクリートに塗りたくられ、床と天井は石を削り平らにされていた。
冷え冷えとする部屋は、今が夜で、壁や床に溜めておいた昼の光が放った熱を既に放ち終えていた。
その、中央。
今夜は赤い月、紅月が映えていた。紅月は丁度、天窓から見えない角度に在った。
点々と光る星だけが灯り。
線状に照らす光は数条。彼を照らしていた。
壁側の窓には黒いカーテンが掛けられ、夜の光さえも遮っていた。
一つ。自然な状況であり不自然な状態。
それが何かと部屋を見渡せば、電灯。闇を隠す為の人の智恵が、無い。
人の造る静寂が覆う世界。
完全な無音とは、違う。完全な夜とも、違う。
まるで絵具の様な黒色が白いキャンパス全体を覆う様に。
そこに絵筆が掛かる。面相筆が、一本。
水と原色の顔料を含んだ筆が、黒を歪める。
扉が開いた。ギイイイと錆び掛けの蝶番が軋音を上げる。
先ず、部屋を侵食したのは影。
人の影が床に走る。星の光が僅かに鈍い闇を軽くしていた。
濃い灰色に薄い黒色が加わり、濃い影を造っていた。影の主は、人では無かった。
けれども、何かは解らない。二足歩行をする者だった。
胸部の辺りとその直線上の背後の一部に貫かれた傷跡の有る服を纏い、煙管を吹いていた。
紫煙は天井に昇る途中で霧散する。
コツコツと石の上を歩く靴は、金属の接触音を響かせていた。
そして足が止る。「彼」の、目前で。
白い髪を鷲掴み、グと顔を上げさせる。
「うう」
声というよりも、音が洩れた。全てを諦めていた。
それに快楽を得ているような笑みが、浮かんだ。
「やああ。喋る気に成ったかい」
唾液を滴せる長い舌が、彼の頬を下から上に這う。
ザラついた舌は、猫の様な。ゆっくりと頬を伝っていく。
彼が、更にゆっくりと首を横に振る。
まるで狂喜に打ち震えていた様な表情が、一転した。
狂気。そして暴力の相貌。
「別に、お前で無くても良くなったんだよ・・・可愛いなぁ慈雨ちゃん」
耳元で囁いたのは、彼の愛する者の名であった。
そして、全てを無くした者に最後の絶望を与える名でもあった。
声を掛けた者の顔に喜びの色が戻る。
「や・・止めろ」
己の運命に涙流す、まるで悲劇の主人公の様な叫び。
掠れがすれに生まれた声は、愛しき者を護らんとする。
「喋るかい」
悪魔の、交渉。公正など何処にも無い、一方的な不平等。
まるで、白紙に拇印を押す様なもの。
しかし。僅かにでも絶望という名の望みが出来てしまった。
瓦解する心の砦。
「 」
呟くのは、古代に世界を統べた幻神の名。
そして、扉を開く鍵と成る呪言。
悪魔の顔が綻ぶ。
こんなに、こんなに簡単に。
「有難う、宇童君」
そして足音。
段々と扉に近づく。扉へと遠のく。
「嗚呼、そうそう。見つけた時には死んでたよ。慈雨ちゃん」
ギイと、扉が閉まる。
最早、交渉でさえ無かった。
しかしこれは、悪魔の失敗だった。
悪魔は魔王を呼び出してしまった。
縄を引き千切り立ちすくむ姿が其処にあった。
傷が癒えていた。爪も生え、奥歯も揃い、足の怪我も。
吸血鬼。
彼は、夜の眷属の中でも最強と謳われる種族の一員であった。
白すぎる肌も、奥歯の短牙も、全ては吸血鬼を表す。
宇童は、敢えて己の力を封印していた。夜の眷属としての力を。
それは愛すべき者の為。
愛した者は、人であった。人の血を啜る鬼に化す訳にはいかなかった。
彼女が、死んだ。それは己が課した枷が壊れた事を意味する。
「慈雨・・慈雨、慈雨、慈雨、慈雨、慈雨、慈雨」
狂ったテープレコーダーの如く。
とめどない涙。赤い赤い涙は、何時までも。
そして歩き出す。
一歩ずつ。ゆっくりと。ゆっくりと。
あの、可愛らしい顔を思い出しながら。
あの、清純な性格を思い出しながら。
あの、透き通る様な長い髪を思い出しながら。
あの、柔らかい手の感触を思い出しながら。
あの、二人で交わした言葉を思い出しながら。
あの、暖かな空間を思い出しながら。
たかだか使命の為に、失ってしまった者。
全ては自分に罪が有り、けれども罰を受けるのは自分だけでは済まない。
「慈雨」
永久に忘れない様に。君にこの声が届きますように。
永遠に二人が離れないように。君にこの思いが届きますように。
二人を裂いた全ての者に復讐を誓う。